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わたしのソファー

詩と死をむすぶもの



詩と死をむすぶもの 詩人と医師の往復書簡

谷川俊太郎 ・ 徳永進



命の終わりを見守るホスピス診療所では、日々いろいろな死(=生)がある。
医師の徳永さんは言う。
「老いた人の死と若い人の死、違わない。信仰に支えられ死を受け入れた人と、悔しいと叫びながら世を去る人、違わない。
生きてること、死ぬこと、違わない。小さなことはさんざん違うが、一番大切なことは違わない。みな同じ。」

そうかしら?
他人の死はそうかもしれない。
でも自分は?

死んでみなきゃわからない(笑)。


この往復書簡の中で、エリザベス・キューブラー・ロスの晩年に触れていた。
精神科医である彼女は、「死の瞬間」がベストセラーになったが、
脳溢血で倒れ半身不随になったときにTVでインタビューにこう答えた。
「四十年間、神に仕えてきて、引退したら脳卒中の発作が起きた。
何もできなくなり、歩くことさえできなくなった。
だから私は烈火の如く怒って、神をヒトラーと呼んだ。」

どんな試練も困難も、最も辛い喪失も、すべてあなたへの贈り物なのです―
真摯に死にゆく人に尽くしたロスさんの言葉に、どれほどの人が救われたことだろう。
私自身も、古本屋で買った「死の瞬間」は今も本棚にあるし、
自伝の「人生は廻る輪のように」も読んだ。
これから読む本のリストにもある、「ライフレッスン」という文庫は本棚で待っている。

それなのに、彼女は怒りに支配されている。
その時のインタビューでは、たまたま、彼女自身の言う、
「否認」と「怒り」の時期だったのだろうか。
しかしあれほど死にゆく人たちと対話をし続けた人なのに・・・という思いになってしまう。
怒り狂うロスさんは、やはり人間として正直で魅力がある、という受け取り方もできる。
しかし、あれほどの体験をされた人の態度としては、?の感がぬぐえない。

谷川さんは、それは東洋と(受容ということかな)西洋の文化―死を敵視する・・
その違いからくるものだろうかと仰っている。

徳永さんが触れていた。生命科学者の柳澤桂子さんの、病や死に対する受容・姿勢というもの、そういうのも素敵だと。
以前、ここに柳澤桂子さんの本を紹介したことがあるが、彼女は膠原病のような症状に悩まされてきた方で、現在も寝たきりの状態である。
本を読む限りでは、まったく、ロスさんとは真逆である。

谷川さんも、柳澤さんも、同じようなことを仰っていた。
辛い現実に直面したとき、その「現実」とは客観的に存在するのではない。
自分たちの主観によって、いくらでも変化できるものだと。

人の気分なんて、その日によって(お天気によっても)変わるもんである。
死の瞬間、死までの短い日々は、同じ人間だもの、怒ったり悲しんだり、あるんだろう。
それはきっと、偉大な精神科医であったロスさんも同じ事と思えば納得もできる。

でも・・・徳永さんのホスピスでの日々を読むと、
このホスピスだからかもしれないが、「死は穏やかだ」という印象が残った。

だってそれは・・・動かなくなるから。
まるで子供のような言い方だけれど、「死」自体はとても穏やかなものに感じられる。

さまざまな想いは、引き潮のように、死の間際に現われてくるんだろう。
悔しいこと、納得できないこと、恨みつらみ・・・
でも、すぅっと吸い込まれて、結局は静かになり、動かなくなる。

確かにそこにあった、想い。
それは、大切な人がそこにいた、一緒に生きたという証として、
生きている人がずっと感じているもの。
きっと、死んでしまった人も、ずっとわかっているもの。


・・・・今、手にしているのはロスさんの「ライフ・レッスン」
この本は、彼女が倒れてから書かれている部分もあるらしい。

本の連鎖が続いて止まらない。
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Commented by おやスケ at 2009-03-23 23:27 x
言葉は死を受け止められない・・・死は言葉では受け止められない、これは私が最近よく思うことです。
マザーテレサが亡くなる直前、発した言葉(言葉でしか発する事のできない虚しさも含めて)、「言葉が多すぎます」・・・極めつけですよね。
でも、黙って見るだけでわかることって本物のような気がします。
「辛いの?」 「うん、辛い」って会話より、じっと見て、辛いんだなって感じることのほうが、言葉より多くの何かが含まれていますよね。会話はある意味、破壊的でもあるときがあります・・。
河合隼雄、村上春樹に会いに行く・・・を読んでいて、欧米人の、言葉化好き、言葉指向ゆえの自由さと不自由さを考えさせられました。同時に日本人の言葉にしない文化・・・ロスさんも日本にしばらく住んでみたらどうだったのか・・・と思います。「ライフ・レッスン」・・・面白そうですね。では、チェルシー!
Commented by umih1 at 2009-03-24 21:45
おやスケさん
長い独り言にお付き合いいただいてありがとうございます~。
わたしはどちらかというと、黙って気持ちを伝えるというのが苦手かも知れません。
言わないでいて、後悔したことがたくさんありました。
でも、言ってしまって、後悔したこともたくさんあります。
本当にしんどい時って、そしてそれを見ている側も、何も言えないものですよね。何か言ったら、ふわふわと言葉は宙を浮くような。
でも、わかっていても言わずにいられない自分も、あるんです。

河合さんと村上さんの本、読んで頂いてるんですね。
自分が紹介した本を読んでいただけるのって、(偶然かもしれませんが)とても嬉しいものです。
メルシー!
Commented by 凡愚 at 2009-03-25 13:15 x
僕も少しの期間こういうことビハーラ(仏教版ホスピス)に参加させていただいたんですが、「自分がどうにかしてやろう的」な時ってなんか違うんですよね。健康な人が寄り添うのも病気の人からしたら羨望だったり。違うものを抱えながら生きている切なさをかんじるんです。でもよりそうしかないのかな?答えなんてないっすけどね。

「老いた人の死と若い人の死、違わない。信仰に支えられ死を受け入れた人と、悔しいと叫びながら世を去る人、違わない。
生きてること、死ぬこと、違わない。小さなことはさんざん違うが、一番大切なことは違わない。みな同じ。」

って言葉ですが、本質的に同じであっても違う様にみえるのが私達ですよねwww
Commented by kisaragi87 at 2009-03-25 22:57
脳梗塞を患って半身不随になって10年、最後は寝たきりになってしまった義母でしたが
ずっとそばにいて見つめ続けながら、義母の受容する強さを感じていました。
天真爛漫でわがままなところもあった人でしたが、人を責めるというところがない。
笑顔も忘れない、ユーモアがある。
病むということは、老いるということは看る人も大変だけど
それ以上に本人が苦しく辛いことですよね。
でも、それも心のありようでずいぶん違ってくるように思います。
最期の半年はほんとうに苦しいだけの時間だったと思うけど
静かなこの世とのお別れでした。
私は義母のようにできるだろうかといえば、すごく難しいと思えてしまいます。
今は死を受け入れる気持ちはあると思うものの、実際にその時になってみなければ
わかりません。
苦しいのは嫌だしなあ、誰もが迎える最期の時だけど、どう対峙できるのでしょうね。
Commented by umih1 at 2009-03-26 17:54
凡愚さん
そうですね、違うものを抱えながら生きている切なさ・・・
それは仕方のないことですよね。
そういう切なさをもっているんだ、
という事がお互いに感じ取れればいいのでしょうね。
もし自分が余命わずかと宣告されたら、
いったいどういう行動をとるでしょう。
体の自由がまったくきかなければ、精神を自由にするしかありませんね。
自由になるためには、まず現状を受け入れなければならないのでしょうが、そういう時間があるかないか、という事を考えると、不慮の事故で亡くなった場合はどうなんだろうと思います。
いつ死んでも後悔しないように、
「これがもしかしたら最後かもしれない」
という思いは持ち続けようと思いました。
Commented by umih1 at 2009-03-26 17:54
kisaragiさん
10年も寝たきりのお義母さん・・・受容力の大きさ強さ。
ずっと見続けてきた如月さんは、変な言い方ですが、
お義母さんから大きな贈り物をもらったのかもしれませんね。
お義母さんはとても苦しかったのでしょうが、心の中では笑顔でこの世を去られたのかもしれませよね。

>でも、それも心のありようでずいぶん違ってくるように思います。
そうですよね。。。
生命科学者の柳澤さんがおっしゃっていました。
「苦しみも悲しみも私の心のなかにある。苦しみを苦しみにしているのは、
ほかならぬこの私なのである。すべて私の心がつくりだしている。
それをつくりさえしなければ、私はいつも安らかでいられる」
この言葉は、日常生活でもいえることですよね。
簡単なようで難しいな~と思います。
by umih1 | 2009-03-22 23:41 | | Comments(6)
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